「遺影の大切さ」

私は僧侶ですので葬式の時には必ず遺影を見ます。遺影をしっかりと見つめてお経を唱えます。そうしているとその遺影からその人の生きて来られた足跡というか、人生観みたいなものが見えて来るのです。

先日、あるおばぁちゃんのお葬式をしました。確か行年92才だったのですが、祭壇の遺影が若くてどうみても60才ぐらいにしか見えません。何か不自然な感じでした。

葬儀が終わって身内の方に尋ねてみますと、「いくら探してもおばぁちゃんの写真がなかったんです。どうにか近所の方が持っておられた昔の町内旅行の写真をお借りして間に合わせたんですよ。」とのことでした。

よくよく聞いてみますと、おばぁちゃんが55才ぐらいの時の写真だったそうです。
どうりでかなり若く見えたはずです。生前を良く知っているものにとっては別人のようで少し違和感があったのは否めません。

遺影は故人を偲ぶ大切なものですから、万が一に備えて前もって準備しておきたいものです。また残された家族にとっても、できることならその人の一番良い顔の写真を飾ってあげたいと願うのが正直な気持ちではないかと思います。

死というものは突然やって来ることもあり、誰にも予測できません。災害、災難、
交通事故など思いもしなかった事がおきて突然他界するのは仕方ありませんが、
老いを自覚する年頃まで生きてきたならば、その準備をしておくべきでは
ないでしょうか。

晩年期になると誰でも死というものを意識してきます。死を見つめることでほんとうの生き方が見えてくるような気がするのです。

お大師様は「教王経開題」という書物の中で「いたずらに秋葉の風を待つの命をたのんで、むなしく朝露の日を催すの形を養う。この身のもろきこと泡沫のごとく、吾命の仮なること夢幻のごとし。無常の風たちまちに扇げば、四大瓦のごとく解け、閻魔の使いたちまちに来たれば、六親誰をかたのまん。」と云われています。

「秋に木の葉が風で散るように、つかの間の命を頼みにして、むなしく朝露が日に照らされて消えていくような身体を養っている。この肉体のもろいのは水に浮かぶ泡のようであり、私達の命も仮で夢か幻のようなものである。無常の風が吹けば私達の身体は簡単に壊れ、閻魔大王の使いが来れば、肉親でもそれを引き止めることはできない。」という意味です。

だからこそ、今生かされている命を大切にして精一杯生きて行かなければならないと思うのです。そしていつ死を迎えても悔いの残らないように、自分の生きてきた
証として自分らしい写真を残しておきたいものです。

  


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