現代における死生観

最近は火葬場が整備され、土葬はほとんど見られなくなりました。 それに伴い、皆に見送られ墓まで
行列をつくって歩くこともなくなり、 墓前で野辺の送りをして葬った光景が懐かしくさえ思えてきます。

それでも少し前までは霊柩車が通ると、誰彼に関係なく合掌して見送る 姿があったのですが、それも今は
ほとんど見かけることがありません。 人の死に対して無関心になったのか、それともその認識がないのか
わかりませんが、何かさびしくなります。

私は田舎坊主ですが、まだ老僧が健在なものですからつい最近まで 都会の忙しいお寺さんに役僧として勤め
た経験があります。その中で驚いたことは、葬式で引導作法を真剣にやっている僧侶が いなく、葬式に対する
感覚が完全に麻痺してしまっていた事です。 それは葬式でなく告別式に置き換えられているようでした。

人の死に対してあまりにも慣れてしまって、そこに死の尊厳や 敬虔さも無くなってしまっていたのです。
私はそんな光景に出会いながら、何故なんだろうと考えていました。 都会では火葬場に行くと何台も霊柩車
が到着して順番を待っています。

私の田舎では葬式がめったに在りません。当然霊柩車を見かける事も 少なく、もしあったとしても何処の
誰の葬儀というのはすぐわかります。 都会は人口が多くそれだけ死ぬ人も多いので、一々かまっていられな
いのではないかという考えに辿りつきました。

また高齢化社会になって、百歳近くまで生きられる方がめずらしく なくなりました。当然ながら喪主さんの
年齢も高くなっています。 そうした中で、自分の番がもう近いのに「やっと逝ってくれた」という 感覚になって
しまうので、送る気持ちが薄れるのではないかということです。

また、核家族化で肉親の死に立ち会うということが少なくなりました。 昔は大家族で子供でも臨終を見届ける
よき風習があったのですが、 現代ではほとんどありません。それで「死生観」が育つとは思えないのです。

死は大きく分けると自分の死と肉親や友人などの他人の死に分かれます。
自分の死は当然経験できませんが、いかに他人の死を経験するかによって 死生観も違ってきますし、
そこから学ぶ事もたくさんあると思います。 そして自分にとってかけがえのない人の死を経験する事により、
仏縁を 頂き自分の仏性に目覚める方が多いのではないでしょうか。

あまり死を意識しすぎるのもよくありませんが、人の死に無関心になり すぎてもいけません。日本人の昔の
よき心が育つことを願います。 ※〔平成十五年に掲載したものです。〕



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